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【ドイツの歴史2】フランク王国からカール大帝へ:東フランク誕生とドイツ史の出発点

AIで描かれたカール大帝(シャルルマーニュ)の想像肖像で、王冠とマントを身につけた中世ヨーロッパ風のイメージ画像 ドイツの歴史
AIによるカール大帝のイメージ画像
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ドイツの歴史は、古代ゲルマン人の部族社会から、中世の大きな王国へと舞台を移していきます。森に囲まれて暮らしていた人々が、やがてヨーロッパ全体を左右する巨大な国家を築く――その転換点が「フランク王国」「カール大帝」の時代です。

まいん
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この記事では、5世紀末から9世紀までのお話を、できるだけわかりやすく紹介します

フランク王国の誕生

フランク族の台頭

5世紀後半、西ローマ帝国が滅びると、ヨーロッパはさまざまな部族国家が割拠する混乱の時代に入りました。その中で頭角を現したのが、ゲルマン人の一部族である「フランク族」です。彼らは現在のフランス北部からベルギー、ドイツ西部にかけて勢力を広げていきました。

『部族の王』から『キリスト教世界の王』へ

フランク族の王として有名なのが クローヴィス です。彼は5世紀末に自らの支配を固め、キリスト教に改宗しました。これによってフランク王国はローマ教会から強い支持を得て、ヨーロッパ世界にしっかりと根を下ろすことができました。

この「部族の王」から「キリスト教世界の王」へという変化は大きな意味を持ちます。ゲルマン人の中でいち早く主流の宗教を受け入れたことで、フランク王国は他の部族国家よりも一歩抜きん出る存在となり、その後のヨーロッパの中心的な役割を担う基盤ができあがりました。言い換えれば、この時点で「ドイツ」という国の物語が、ゆるやかに始まったのです。

カール大帝 ― ヨーロッパの父

カール大帝の登場

フランク王国をさらに大きく飛躍させたのが、8世紀に登場する カール大帝(シャルルマーニュ) です。彼は父、ピピン3世※豆知識参照から受け継いだ王国を巧みに拡張し、西ヨーロッパの広大な地域を支配下に収めました。

カール大帝のすごさは、単に領土を広げただけではありません。彼は法律や行政を整備し、地方を任せる役人を派遣することで、広い国を効率的に治めようとしました。また、学問や教育の復興にも力を入れ、修道院を中心にラテン語文献の写本が進められました。これを「カロリング・ルネサンス」と呼びます。

皇帝の誕生

そして何より象徴的なのは、800年のクリスマスの日。ローマ教皇レオ3世から皇帝の冠を授けられた出来事です。この戴冠は「西ローマ帝国の伝統を引き継ぐ新しい皇帝」の誕生を意味し、ヨーロッパ全体に強烈なインパクトを与えました。

ジャン・フーケ「カールの戴冠」(パブリックドメイン) の画像

画像:ジャン・フーケ「カールの戴冠」 (1455年-1460年)Jean Fouquet, Tours – http://expositions.bnf.fr/fouquet/grand/f008.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

カール大帝は後世「ヨーロッパの父」と呼ばれるようになります。彼が築いた政治的・文化的な枠組みは、その後のヨーロッパ史の礎となり、ドイツ史にとっても避けては通れない大事件でした。

帝国の分裂とドイツの始まり

カール大帝の死とヴェルダン条約

しかし、どんなに偉大な王であっても、その後の歴史を永遠に支配することはできません。814年にカール大帝が亡くなると、彼の残した広大な帝国は徐々に分裂の道を歩みます。

決定的だったのは 843年のヴェルダン条約 です。これはカール大帝の孫たちが帝国を三つに分割したもので、以下の三国が誕生しました。特に「東フランク王国」が、のちに「神聖ローマ帝国」となり、ドイツの中心的な歴史を形づくっていきます。

🟩 緑:西フランク王国(Charles the Bald/禿頭王シャルルの領土)
→ のちのフランスにつながる地域。

🟨 黄:中部フランク王国(Lothair I/ロタール1世の領土)
→ 短命に終わり、その後分割・吸収される。
(現在のイタリア北部〜ベルギー、オランダ、スイスなどを含む)

🟧 橙:東フランク王国(Louis the German/ドイツ人ルートヴィヒの領土)
→ のちのドイツへと発展する地域。

ヴェルダン条約およびメルセン条約によるフランク王国の分割を示す地図の画像

画像:ヴェルダン条約およびメルセン条約によるフランク王国の分割。橙色の部分が東フランク王国。Adapted from Muir’s Historical Atlas (1911)File from Fordham University Internet Medieval Sourcebook, パブリック・ドメイン, リンクによる

つまり、ヴェルダン条約は「ドイツ史がここから始まった」と言える分岐点でした。森に暮らしていたゲルマン人が、フランク王国を経て、ついに「ドイツ」という国への第一歩を踏み出したのです。(注:その後も小さな領土の調整は続き、870年のメルセン条約で再び分割が行われましたが、東・西・中部という基本構図はこのヴェルダン条約で固まりました。)

おわりに ― 国の始まりを告げる時代

フランク王国の成立からカール大帝の栄光、そして帝国の分裂。この一連の流れは、ドイツだけでなくヨーロッパ全体の歴史において非常に大きな意味を持っています。

  • フランク族がキリスト教を受け入れたことは、ゲルマン世界を「ヨーロッパの一部」に組み込んだ。
  • カール大帝の統合と皇帝戴冠は、ヨーロッパという地域の共通意識を芽生えさせた。
  • ヴェルダン条約による分裂は、ドイツという国の出発点をつくった。

こうして見ると、中世序盤は「ドイツの始まり」を告げるドラマの舞台だったことがわかります。

まいん
まいん

次回は、この東フランク王国からさらに発展していく 神聖ローマ帝国 の時代を取り上げます。いよいよ「ドイツ」という国が歴史の表舞台に立ち、長い中世の時代が幕を開けることになります。

📝豆知識:ピピン短躯王とは?

カール大帝の父である ピピン3世 は、しばしば 「ピピン短躯王(ピピン小帝)」 と呼ばれました。体が小柄だったとも言われますが、実際には「背丈は低くても権力は大きい」という意味合いもあったようです。

ピピン3世はフランク王国の実権を握り、新しい王朝=カロリング朝 を開いた人物です。それまでの王家に代わって正統な王となり、フランク王国を新しい時代へと導きました。

このとき築かれた基盤が、のちに息子である カール大帝 の手で大きく花開きます。カール大帝はヨーロッパの広大な地域をまとめ上げ、「ヨーロッパの父」と呼ばれる存在になりましたが、その土台を固めたのがピピン3世だったのです。

小さな体に大きな役割――ピピン短躯王のあだ名には、そんな歴史の皮肉も込められているのかもしれません。

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