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【ドイツの歴史3】神聖ローマ帝国の成立と中世ドイツの姿(962年〜15世紀末)

神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー1世の想像図 ドイツの歴史
AIによるオットー1世想像図
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カール大帝の死後、フランク王国は三つに分かれました。そのうち、東フランク王国がのちにドイツの中心となる国へと発展していきます。

まいん
まいん

今回の「ドイツの歴史3」では、この東フランク王国から生まれた神聖ローマ帝国と、初代皇帝オットー1世の時代を見ていきます。

オットー1世と神聖ローマ帝国の誕生

オットー1世の登場

10世紀のはじめ、東フランク王国では諸侯がそれぞれに力を持ち、国の統一は不安定でした。その中で登場したのが、サクソン家の王、オットー1世です。彼は内乱を鎮め、各地の領主をまとめ、国に秩序を取り戻していきます。オットーは外交にも力を入れ、婚姻関係を通じて周辺国との結びつきを強めました。

神聖ローマ皇帝オットー1世のモザイク画
オットー1世を描いた中世のモザイク画

オットー1世のモザイク画(イタリア・ラヴェンナの作品)

Axel Mauruszat – Cropped from File:Ubf Richard-Wagner-Platz Mosaik Otto I.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

皇帝の戴冠と帝国の始まり

オットーは国内の諸侯を抑え、955年に異民族であるマジャール人をレヒフェルトの戦いで打ち破り、名声を高めました。

その後962年、オットーはローマ教皇から「ローマ皇帝」として戴冠されます。これは、古代ローマ帝国の継承者としての地位を与えられたことを意味し、後の「神聖ローマ帝国」の正統性の出発点と言われています。「神聖」とは、皇帝が教皇の祝福を受けたことで、神の代理人としての正当性を持つとみなされたことを意味しています。宗教的正統性が国家の権威を支えていたのです。

神聖ローマ帝国の政治構造:皇帝と諸侯の力関係

皇帝と諸侯の分権体制

皇帝は名目上、帝国の頂点に立つ存在でしたが、現実には各地の諸侯たちが強い自治権を持っていました。とくに大領主や教会領主は、自ら軍隊を持ち、法律を定め、事実上の「小国家」のような支配を行っていたのです。

選帝侯と皇帝選出の仕組み

また、皇帝の選出には「選帝侯(せんていこう)」と呼ばれる特定の諸侯の投票が必要であり、皇帝は彼らとの妥協や交渉なしには実質的な権力をふるえませんでした。神聖ローマ帝国では、1356年に定められた「金印勅書」により、選帝侯の数は7人(3人の聖職者と4人の世俗諸侯)と規定されました。

中世ドイツの七選帝侯を描いた写本挿絵(ハインリヒ7世時代)

七選帝侯を描いた中世の挿絵(14世紀ごろ)

不明 – Landeshauptarchiv Koblenz, パブリック・ドメイン, リンクによる

その後、時代によって増減はありましたが、彼らによって次の皇帝が選ばれる仕組みが維持されました。皇帝候補はその支持を得るために、多くの特権や恩恵を約束せねばなりませんでした。

都市の発展と自由都市

都市の成長と自治の確立

12世紀以降、ドイツ各地では経済の発展とともに都市が急速に成長します。とくに交易や手工業の中心として発展した都市は、次第に領主の支配から自立し、「自由都市」と呼ばれる特別な地位を得るようになります。

自由都市は皇帝に直属する地位を認められ、周囲の諸侯に干渉されず、独自の法や制度を整えることができました。代表的な都市には、ハンブルク、フランクフルト、リューベックなどがあります。

ハンザ同盟の広がり

北ドイツの自由都市を中心に結ばれた「ハンザ同盟」は、商業上の利益を守るための都市同盟であり、14世紀にはバルト海・北海の広い範囲に影響を及ぼす巨大なネットワークへと発展しました。

まいん
まいん

ドイツの航空会社ルフトハンザの名前は、「空(Luft)」と中世の商業同盟「ハンザ(Hansa)」を合わせたもので、“空のハンザ同盟”という意味です。

中世ドイツの国家構造とそのゆらぎ

多元的な権力構造

神聖ローマ帝国は、中央集権国家とは大きく異なり、皇帝・諸侯・教会・都市といった複数の権力主体によって構成されていました。そのため、帝国としての一体感は希薄で、皇帝による統治の強さにも大きなばらつきがありました。

帝国議会と緩やかな統一

それでも「帝国」という枠組みは長く機能し、対外的には一つの統一体としてヨーロッパに認識され続けました。諸侯や都市、教会の代表が集まる帝国議会(ライヒスターク)では、重要な法律や戦争、税制などが協議され、合意を得たものが帝国内で有効とされました。

ただし、議論には時間がかかることが多く、それが帝国の迅速な対応を難しくする一因ともなりました。

おわりに

神聖ローマ帝国は、長く続く「ゆるやかな国家連合」として中世ドイツを形作りました。しかし、その分権体制は、やがて内部分裂や外部圧力により揺らぎ始めます。

1517年、マルティン・ルターによる宗教改革が始まると、帝国内の対立は決定的となり、「宗教と政治」が複雑に絡み合う新たな時代が幕を開けるのです。

まいん
まいん

神聖ローマ帝国って、まるで「ゆるくて長い同居生活」みたいな国だったんですね。次回は、その日常を一変させる「宗教改革」について見ていきましょう!

🕯 中世ドイツの小話:「都市の鐘と“夜の男”」

中世のドイツ都市では、夜になると「夜警(Nachtwächter)」と呼ばれる人が、町を見回りながら時刻を知らせていました。手にランタンを持ち、静かな夜道を歩きながら「火を消して休みましょう」と歌う声が響いたそうです。

その夜警歌のひとつに、こんな呼びかけが伝えられています。

„Hört, ihr Leut’, und lasst euch sagen, die Uhr hat zehn geschlagen…“
(聞け、民よ、十時の鐘が鳴ったぞ…)

鐘の音と夜警の声を合図に、人々は炉の火を消し、家族で静かに眠りについたといいます。いわば「中世の夜10時の消灯アナウンス」だったのかもしれませんね。

中世ドイツの街を巡回する夜警。ランタンと槍を手に、厚手のマントを羽織って夜の石畳を歩く姿。
AIによる中世ドイツの夜警想像図

ドイツの歴史をざっくりと:古代から現代までの流れをたどる

【ドイツの歴史1】古代のドイツ:ゲルマン人たちの世界とローマ帝国との邂逅

【ドイツの歴史2】フランク王国からカール大帝へ:東フランク誕生とドイツ史の出発点

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