【ドイツの偉人・有名人】第3回 クララ・シューマン|「夫の影」ではなく、自分の音を奏で続けた女性

ドイツのピアニストクララ・シューマンをバウハウス風に描いた画像 ドイツの偉人・有名人
クララ・シューマン(筆者監修AI画像)
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クララ・シューマンが教えたフランクフルトのDr.ホッホ音楽院の外観(筆者撮影)
筆者が習い事をしていた、クララ・シューマンゆかりの音楽学校(筆者撮影)

クララ・シューマン。音楽の教科書などで一度は名前を目にしたことがあるかもしれません。でも、「ああ、シューマンって作曲家の奥さんでしょ?」なんてイメージで止まっていませんか?

実は彼女こそ、19世紀ドイツで「ピアニスト」という職業を本格的に切り開いた、先駆者ともいえる存在。家族のこと、夫のこと、自分の音楽のこと。いろんなものを抱えながら、それでもピアノの前に立ち続けた、芯の強い女性だったんです。

私の住むフランクフルトにもクララにゆかりの音楽学校があり、かつてそこで習い事をしていたことのある私は彼女を少しだけ身近に感じています。今回はそんな彼女の生涯をご紹介します。

クララ・シューマンとは?──少女時代から、世界を旅するピアニストへ

クララは1819年、ドイツ・ライプツィヒに生まれました。両親はどちらも音楽家で、彼女が4歳のとき両親が離婚。以降はピアノ教師でもあった父・ヴィークの厳しい教育のもとで育てられます

若き日のクララ・ヴィーク(のちのクララ・シューマン)の肖像画
若き日のクララの肖像画 *1

小さい頃からクララのピアノの才能は光っていて、9歳でコンサートデビュー。12歳でウィーンに招かれ、ヨーロッパ中で“ピアノの天才少女”として話題になりました。

そんなクララが出会ったのが、父の弟子だった10歳年上のロベルト・シューマン。最初は家族ぐるみの付き合いでしたが、やがて恋に落ちます。

でも、父ヴィークは2人の結婚に猛反対。ロベルトを「稼げない作曲家」と決めつけ、クララを家から出さないようにしたのです。それでもクララは自分の意志で恋を貫きました。ライプツィヒ地方裁判所に訴えを起こし、裁判ではクララの意志が尊重されて結婚の許可が下りたのです。

そして1840年9月12日、21歳の誕生日の前日にロベルトと結婚。このとき、父とは完全に絶縁となりました。

家族、音楽、そして自分──クララが大切にしたもの

結婚後、クララとロベルトの生活は決して楽ではありませんでした。2人の間には8人の子ども(後に2人失う)が生まれますが、ロベルトは精神的に不安定で、晩年には療養所で亡くなっています。

若き日のロベルト・シューマンの肖像画
若き日のロベルト・シューマンの肖像画*2

その間、クララは家計を支えるために各地を演奏してまわり、ロベルトの楽譜を整理して出版し、自分の作品も発表し続けていました。演奏する曲は、ベートーヴェンやバッハといった過去の巨匠から、当時の新進作曲家まで幅広く。クララの手によって、多くの素晴らしい作品が人々に届けられたのです。

そして、彼女自身の音楽もまた、繊細で美しく、心にじんわり染みわたるようなものばかり。今では、クララ・シューマンの作品として、次のような曲が世界中で演奏されています。

  • ピアノ協奏曲 イ短調(なんと16歳で作曲!)
  • ピアノ小品集《音楽の夜会》
  • 《愛の春》〜夫ロベルトと共作した歌曲集

Ich glaube, ich werde nicht mehr komponieren.(作曲はもう、しないかもしれない)“と日記に書いたのは、夫が亡くなったあとのこと。けれど、それでも彼女はピアノの前に立ち続けました。

夫の死を越えて──「クララ・シューマン」としての後半生

1856年、ロベルト・シューマンが精神病院で息を引き取ったとき、クララはまだ37歳でした。このとき彼女には、7人の子どもと、積み上げてきた演奏家としての名声、そしてひとりの未亡人としての孤独が残されました。

けれどクララは、そこで立ち止まりませんでした。

🎹 母として、演奏家として生きる

夫の死後、クララは本格的に演奏活動に復帰します。当時の女性としては異例ともいえる「演奏旅行」を精力的にこなし、ウィーン、ロンドン、パリなどヨーロッパ各地でコンサートを開催。その演奏は聴衆の間で次のように賞賛されました。

  • 「深く、知的で、まっすぐ」
  • 「ドイツ最高のピアニスト」
  • 「クララ・シューマンは別格」

また、彼女は演奏活動で得た報酬を元に、子どもたちの教育費や生活費を一手に支えました。
家計簿や旅の記録からは、非常に几帳面で現実的な一面も垣間見えます。

💬 ブラームスとの関係

クララの後半生に欠かせない存在といえば、ヨハネス・ブラームスです。彼がまだ無名の若者だった頃、クララはその才能をいち早く見抜き、ロベルトとともに彼を支援しました。

若き日のヨハネス・ブラームスの写真
若き日のヨハネス・ブラームスの写真*3

ロベルト亡きあと、ブラームスとクララの関係は深まっていきます。お互いに強く惹かれ合っていたことは、残された手紙からも明らかです。ただし2人は、最後まで恋人という関係にはなりませんでした。

それは、クララの中に「ロベルトの妻として生きる」という静かな覚悟があったからかもしれません。彼女は常に節度を守り、「妻」「母」「芸術家」としてのバランスを、決して崩すことなく生きました。(※映画『Geliebte Clara(愛の協奏曲)』では、クララとブラームスの関係をロマンティックな恋愛関係として描いていますが、史料には一線を越えた証拠はなく、多くの研究者は精神的・音楽的な深い絆であったと解釈しています。)

🎼 教育者としての後半生

晩年のクララは、フランクフルトにある Dr. Hoch’s Konservatorium(ドクター・ホッホ音楽院)でピアノの教授を務めます。当時、女性が正式な音楽教師として教壇に立つのは非常に珍しいことでした。

フランクフルトのDr.ホッホ音楽院(クララ・シューマンが教えた学校)|撮影:まいん・どいちゅらんど
フランクフルトのDr.ホッホ音楽院(クララ・シューマンが教えた学校)|筆者撮影

クララは、ただピアノの技術を教えるだけでなく、「音楽とはどう生きるか」を伝えようとしていたと言われています。生徒たちからは「厳しいけれど、いつも誠実で、心のこもった先生」として慕われていました。

🌙 最期の日々

1896年、クララは76歳でこの世を去ります。亡くなる直前まで、彼女はピアノの前に座り、ロベルトの楽譜を見つめていたとも言われています。フランクフルトで没し、ボンの旧墓地(Alter Friedhof, Bonn)に埋葬されました。ロベルトの墓の隣に静かに眠っています。

彼女の葬儀にはブラームスも参列し、静かに涙を流しました。
「クララがいたから、自分は音楽の道を信じることができた」
そう語った彼の言葉は、クララの人生がどれほど深い影響を残したかを物語っています。

名言から見えるクララの心

„Ich fühle mich zu jung, um ganz auf das Musizieren zu verzichten.“
「私は、音楽をやめるにはまだ若すぎると思っているの。」

音楽を続けるべきか迷っていたとき、クララが残したこの言葉。人生の後半に差し掛かってもなお、「私はまだ終わっていない」と、自分の道を貫く姿がまっすぐに伝わってきます。

【クララをたどる旅】ドイツで訪ねたい、彼女の足跡

🎹 シューマン・ハウス(Schumann-Haus Leipzig)

クララとロベルトが新婚時代(1840〜1844)を過ごした家が、現在「シューマン・ハウス」として公開されています。館内には当時使用していた家具やピアノ、2人の手紙、楽譜などが展示されており、クララが記念すべきピアノ協奏曲を初演した時代の雰囲気がそのまま残っています。
公式サイト(英)はこちら
📍Schumann-Verein Leipzig e. V., Inselstraße 18, 04103 Leipzig

🎼 ロベルト・シューマン・ハウス(Robert-Schumann-Haus Zwickau)

ロベルト・シューマンの生家であり、夫妻の資料館としても充実しています。クララの直筆手紙、家族写真、ブラームスとの交流を示す展示など、2人の生涯を通してたどることができます。シューマン夫妻の音楽的遺産を体系的に紹介する、ドイツ国内屈指の資料館です。
公式サイト(英)はこちら
📍Robert-Schumann-Haus Zwickau, Hauptmarkt 5, 08056 Zwickau

🌿 ボン旧墓地(Alter Friedhof, Bonn)

クララとロベルトが並んで眠る墓所。クララは1896年にフランクフルトで亡くなり、翌日ボンに埋葬されました。墓碑には2人の名が刻まれ、今も多くの音楽ファンが花を手向けに訪れています。静かで美しい並木道の一角にあり、ブラームスやシューマン夫妻を敬愛する人々の巡礼地となっています。シューマン夫妻の墓(Schumann-Portal公式ページ)はこちら

📚ドイツには、音楽や芸術、科学や政治など、さまざまな分野で世界に名を残した人たちがいます。彼らの生涯や功績を紹介する記事は、[ドイツの偉人・有名人カテゴリー]にまとめています。

さいごに

クララ・シューマンのことを、私は最初「偉大な夫の影に生きた女性」だと思っていました。でも調べるほど、そのイメージはまったく違っていたことに気づかされます。子育ても仕事も、夫のサポートも、そして自分自身の音楽も、全部を抱えながら、彼女はピアノの前に立ち続けました。

今でいえば、6人の子どもを育てながら第一線で活躍した“働く母”。まさに19世紀の「ワンオペ育児とキャリアの両立」を成し遂げた女性でした。時代も環境も違うのに、クララの姿は、今を生きる私たちに通じる強さとしなやかさを教えてくれます。

映画ではブラームスとの間に情熱的な描写もありますが、私はやっぱり「プラトニックな愛」であってほしいと感じています。2人の間にはきっと“静かで強い愛のかたち”があったのだと思うからです。

クララの人生は「すごい女性だった」で終わるのではなく、「私たちに今も響いてくる物語」だと思います。彼女の音楽に触れる時、自分の信じる人生を貫いたクララの姿に思いを寄せてみてください。

まいん
まいん

クララは、ユーロに切り替わる前のドイツマルク紙幣に描かれていたんですよ。それくらい、ドイツ人にとっては馴染みの深い人物なんです。

出典:*1 Andreas Staub, Public Domain, via Wikimedia Commons
*2 Josef Kriehuber, Public Domain, via Wikimedia Commons *3 Public Domain, via Wikimedia Commons

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