【ドイツの歴史8】ワイマール共和国からナチス台頭へ:揺らぐ民主主義の時代(1919〜1933年)

ドイツ陸軍軍人、政治家のパウル・フォン・ヒンデンブルク ドイツの歴史
パウル・フォン・ヒンデンブルク(筆者監修AI画像)

【ドイツの歴史7】では、第一次世界大戦の敗戦によるドイツ帝国の崩壊、そして皇帝ヴィルヘルム2世の退位までをたどりました。長く続いた帝政は終わりを迎え、ドイツは大きな転換点を迎えます。

しかし、新しい時代が始まったからといって、すべてがうまく進んだわけではありませんでした。

民主国家として出発したワイマール共和国は、経済危機や社会不安、政治の混乱に揺れ動くことになります。そして、その先には後にドイツの運命を大きく変える人物の登場も待っていました。※ワイマール共和国は、より正確には「ヴァイマル共和政」とも呼ばれますが、この記事では日本での認知度が高い「ワイマール共和国」で統一します。

まいん
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今回は、ワイマール共和国の誕生から、ナチス台頭までの流れを見ていきます。

ワイマール共和国の誕生とヴェルサイユ条約

新しい民主国家の出発

帝政崩壊後のドイツでは、社会民主党のフリードリヒ・エーベルトを中心に、新しい国づくりが進められました。1919年には国民議会が開かれ、新しい憲法の制定が始まります。

ワイマール共和国初代大統領フリードリヒ・エーベルト
ワイマール共和国初代大統領フリードリヒ・エーベルト *1

この議会が開かれたのは、ベルリンではなく、テューリンゲン州の都市ワイマールでした。当時のベルリンには革命後の混乱が残っていたため、比較的落ち着いた文化都市ワイマールが選ばれたのです。ここから、新しい共和国は「ワイマール共和国」と呼ばれるようになります。

1919年に成立したワイマール憲法は、当時としてはかなり民主的な内容でした。20歳以上の男女に選挙権が認められ、基本的人権も保障されます。

まいん
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女性が政治に参加できるようになったことは、大きな変化ですね!

ヴェルサイユ条約が残した不満

しかし、新しい共和国は最初から重い課題を背負っていました。その大きな要因が、1919年に結ばれたヴェルサイユ条約です。この条約によって、ドイツはアルザス=ロレーヌなどの領土を失い、軍備を制限され、多額の賠償金を支払うことになりました。さらに、戦争被害の責任を負う条項も盛り込まれます。

この条約を屈辱的と感じた多くのドイツ国民の不満は、条約に署名したワイマール共和国政府にも向けられていきました。ワイマール共和国は、民主国家として出発した一方で、「敗戦の後始末を背負わされた政権」として見られやすい立場にも置かれていたのです。

ハイパーインフレと揺らぐ社会

ルール占領と受動的抵抗

ヴェルサイユ条約による賠償金の支払いは、ドイツ経済に大きな負担をかけました。支払いが滞ると、1923年、フランスとベルギーはドイツ西部の工業地帯ルール地方(Ruhrgebiet)を占領します。

ルール地方は石炭や鉄鋼産業の中心地で、ドイツ経済にとって非常に重要な地域でした。これに対してドイツ政府は、労働者に仕事を停止するよう呼びかける「受動的抵抗」で対抗します。しかし、働けなくなった人々への賃金補償を続けるため、政府は大量の紙幣を発行しました。

まいん
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ルール地方というのは、デュッセルドルフの北東側、エッセンやドルトムント周辺に広がる、ドイツ西部の工業地帯のことを指します。

お金の価値が崩れたハイパーインフレ

その結果、物価は急激に上昇し、ドイツは深刻なハイパーインフレに陥ります。お金の価値は日に日に下がり、貯金はほとんど意味を失いました。特に、まじめに働いて貯蓄してきた中間層や年金生活者にとって、この打撃は非常に大きなものでした。

ハイパーインフレ期の1000マルク紙幣
ハイパーインフレ期の1000マルク紙幣。「10億マルク」と加刷されている。*2

生活の基盤が崩れていく中で、人々の不満はますます強まっていきます。ワイマール共和国は、民主的な制度を持っていても、国民の暮らしを守れない政権だと見られやすくなりました。

この混乱の中で、アドルフ・ヒトラー率いるナチスも行動を起こします。1923年、ヒトラーはミュンヘンで武装蜂起を試みますが、これは失敗に終わりました。しかし、この失敗を通じて、ヒトラーは武力で一気に政権を奪うのではなく、選挙や合法的な手続きを利用して権力を目指す方向へと戦略を変えていくことになります。

ヒンデンブルク時代と一時的な安定

戦争英雄ヒンデンブルクの大統領就任

1925年、ワイマール共和国の大統領に選ばれたのが、パウル・フォン・ヒンデンブルクでした。前回の記事でも触れたように、ヒンデンブルクは第一次世界大戦で名を上げた軍人で、保守層や旧帝国を懐かしむ人々からも強い支持を集めていました。

1925年、選挙戦中のヒンデンブルク
1925年、選挙戦中のヒンデンブルク *3

ワイマール共和国は民主国家として出発しましたが、その頂点に立ったのは、帝政時代の価値観を色濃く残す戦争英雄だったのです。このことは、当時のドイツ社会が、まだ過去の帝国と完全に切り離されていなかったことをよく表しています。

シュトレーゼマン外交と「黄金の20年代」

一方で、1920年代半ばのドイツは、少しずつ安定を取り戻していきます。その中心となったのが、政治家グスタフ・シュトレーゼマンでした。

シュトレーゼマンは、フランスなどとの対立を和らげ、賠償問題を現実的な形に調整しようとします。1924年のドーズ案では、賠償金の支払い条件が見直され、アメリカからの資金も流れ込むようになりました。

さらに、1925年のロカルノ条約、1926年の国際連盟加盟によって、ドイツは国際社会への復帰を進めていきます。この時期のドイツでは都市文化も花開き、ベルリンを中心に映画や音楽、芸術が活気づきました。そのため、1920年代半ばは「黄金の20年代」と呼ばれることもあります。

しかし、その安定は決して盤石なものではありませんでした。ドイツ経済はアメリカからの資金に大きく依存しており、外からの支えが失われれば、再び大きく揺らぐ危うさを抱えていたのです。

世界恐慌とナチス台頭

世界恐慌がドイツを直撃

1929年、ニューヨークで株価が大暴落し、世界恐慌が始まります。その影響はドイツにも及び、企業の倒産や失業が急速に広がっていきました。

生活への不安が高まる中、人々の不満はワイマール共和国の政治にも向けられていきます。経済の危機は、単なる暮らしの問題にとどまらず、民主政治への信頼を揺るがす大きな要因になっていきました。

緊急命令政治と議会の弱体化

経済危機が深まると、議会も安定した対応を取れなくなっていきました。政党同士の対立は激しくなり、内閣は議会の多数派に支えられにくくなります。

そこで使われるようになったのが、ワイマール憲法にあった大統領の非常権限です。本来は緊急時のための仕組みでしたが、1930年代に入ると、議会で十分な合意を得ないまま政治を進める手段として使われるようになりました。

こうして、ワイマール共和国の民主主義は、制度としては残っていても、実際には少しずつ弱まっていきます。

不安の中で支持を広げたナチス

この混乱の中で支持を広げたのが、アドルフ・ヒトラー率いるナチスでした。

ナチスは、ヴェルサイユ条約への不満、失業への怒り、共産主義への恐れなどを利用し、「強い指導者」と「ドイツの再生」を訴えます。1928年にはまだ小さな政党だったナチスは、世界恐慌後の選挙で一気に議席を増やし、1932年には国会第一党となりました。

ただし、ナチスが国民の圧倒的多数に支持されたわけではありません。第一党にはなったものの、単独で政権を握れるほどの多数派ではありませんでした。

ワイマール共和国は、経済危機と政治不信の中で大きく揺らぎます。そして、この混乱を利用しようとする保守派の動きが、次の大きな転換点へとつながっていくのです。

ヒトラー首相任命

保守派の誤算

ナチスが大きな勢力となる中で、ワイマール共和国の行方を左右したのは、ヒンデンブルク大統領の周辺にいた保守派の政治家たちでした。

パーペンやシュライヒャーらは、議会政治の混乱を収めるために、ナチスの大衆的な人気を利用しようと考えます。彼らにとってヒトラーは、危険な存在でありながらも、政権の中に取り込めば制御できる相手に見えていました。しかし、この見通しは大きな誤算でした。

ヒンデンブルクの決断

1933年1月30日、ヒンデンブルクはアドルフ・ヒトラーを首相に任命します。

1933年、ヒンデンブルクとヒトラー
1933年、ヒンデンブルクとヒトラー *4

第一次世界大戦の英雄として知られ、旧帝国の価値観を背負っていたヒンデンブルク。その彼が、ワイマール共和国の大統領として、ヒトラーに政権への道を開くことになりました。

ドイツ初の本格的な民主国家だったワイマール共和国は、その制度の内側で少しずつ議会政治が弱まり、最後にはその仕組みを通じて、ヒトラーが首相に任命されたのです。こうして、ワイマール共和国は事実上の終焉へと向かいます。

ヒトラーが首相となったことで、ドイツは民主主義の時代から独裁体制へと大きく舵を切ることになります。その先に待っていたのが、ナチス政権の成立と、第二次世界大戦へとつながる道でした。

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この先、ドイツは、人類史に深い傷を残す時代へと進んでいきます。しかし現代のドイツでは、その歴史を過去のものとして遠ざけず、学び続ける姿勢が大切にされています。

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📜ドイツの歴史に興味がある方は、ぜひドイツの歴史カテゴリーもあわせてご覧ください。古代ゲルマンの時代から現代まで、時代ごとの出来事をわかりやすくまとめています。

まいんの豆知識:ノーベル平和賞を受賞したシュトレーゼマン

グスタフ・シュトレーゼマンは、ワイマール共和国の安定化に力を尽くした政治家です。1923年に首相を務めた後、外相としてドイツの国際復帰を進めました。

特に、フランスとの関係改善やロカルノ条約などを通じて、第一次世界大戦後のヨーロッパの緊張緩和に貢献したことが評価され、1926年にはフランス外相アリスティード・ブリアンとともにノーベル平和賞を受賞しています。

1926年、仏外相ブリアンとシュトレーゼマン
1926年、仏外相ブリアンとシュトレーゼマン *5

ワイマール共和国は不安定な時代として語られがちですが、その中にも国際協調によってドイツの立場を立て直そうとした政治家がいたのです。

ドイツの歴史をざっくりと:古代から現代までの流れをたどる

【ドイツの歴史7】近代:ドイツ帝国の発展から第一次世界大戦と崩壊へ(1871年〜1918年)

画像出典:
*1 Bundesarchiv, Bild 102-00015 / Georg Pahl / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
*2 self PD by en:user:Watercolour – 14:45, 16 October 2005 . . en:user:Watercolour . . 866×562 (356089 bytes), パブリック・ドメイン, リンクによる

*3 Bundesarchiv, Bild 102-01335 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
*4 Bundesarchiv, Bild 183-S38324 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
*5 不明 – [1] Dutch National Archives, The Hague, Fotocollectie Algemeen Nederlands Persbureau (ANEFO), 1945-1989, パブリック・ドメイン, リンクによる

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