【ドイツの歴史5】近世:プロイセンの台頭から神聖ローマ帝国の解体へ(1701年〜1806年)

フリードリヒ大王のイメージ画像 ドイツの歴史
フリードリヒ大王(筆者監修AI画像)
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前回は、宗教改革と三十年戦争についてお話ししました。ウェストファリア条約によって、ドイツは300を超える小さな領邦国家の集まりとして固まり、「一つにまとまった国家」への道が遠のいたかのように見えました。

しかしその中から、やがてドイツ全体をまとめる力を持つ国家が台頭してきます。それがプロイセンです。今回の「ドイツの歴史5」では、プロイセン王国の誕生から、フリードリヒ大王の治世と神聖ローマ帝国の解体までを見ていきます。

まいん
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小さな砂地の国が、いかにしてヨーロッパの列強へと成り上がったのか――その軌跡をたどってみましょう。

プロイセン王国の誕生(1701年)

ブランデンブルクからプロイセンへ

三十年戦争の傷跡が残る17世紀後半、ドイツの北東部 でひとつの国家が静かに力を蓄えていました。ブランデンブルク選帝侯国です。

ベルリンを中心とするこの国は、もともと砂と湿地の広がる決して豊かとは言えない土地でした。しかし、選帝侯(大選帝侯)フリードリヒ・ヴィルヘルムの時代に、効率的な官僚制度と強力な常備軍が整えられ、戦後復興と領土統合が進みました。

※ プロイセンは、もともと現在のベルリン・ブランデンブルクを中心とする北東ドイツの勢力でした。のちには現在のドイツ北部・東部の広い範囲に加え、現在のポーランドやロシア領カリーニングラードにあたる地域まで含むようになります。

フリードリヒ1世の戴冠

大選帝侯の息子、フリードリヒ3世は、さらに高い地位を求めていました。1701年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の同意を取りつけ、東プロイセンにおいて「プロイセン王国」の初代国王として自ら戴冠します。こうして、選帝侯フリードリヒ3世は、国王フリードリヒ1世となったのです。

プロイセン王国フリードリヒ1世の戴冠式
フリードリヒ1世の戴冠式 *1

⚠️ 注意点:戴冠の場所が「東プロイセン」だったのには理由があります。神聖ローマ帝国内の領地で新たな「王」を名乗ることは帝国の秩序に反するため、帝国の版図の外にあった東プロイセンの地で即位したのです。

こうして「ブランデンブルク=プロイセン」という二重の名前を持つ国家が正式に王国へと昇格しました。軍事力と官僚制度を備えたこの新興国家は、その後のドイツ史を大きく動かしていきます。

フリードリヒ大王の時代(1740〜1786年)

即位と最初の試練:オーストリア継承戦争

若き日のフリードリヒ大王(1736年の肖像画)
若き日のフリードリヒ大王(1736年の肖像画)*2

1740年、父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(初代国王フリードリヒ1世の子)の死去に伴い、28歳の若き王が即位します。後に「フリードリヒ大王」と称されることになるフリードリヒ2世です。

まいん
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フリードリヒだらけで混乱しますね!以下に分かりやすくまとめておきます。

祖父:選帝侯フリードリヒ3世 → 国王フリードリヒ1世
父:フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
子:フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)

即位直後、ヨーロッパでは大きな変動が起きていました。同じ1740年に神聖ローマ皇帝カール6世が死去すると、娘マリア・テレジアによるハプスブルク家の継承をめぐって諸国の対立が激化し、オーストリア継承戦争(1740〜1748年)が始まりました。

マリア・テレジア(1743~1745年頃の肖像画)
マリア・テレジア(1743~1745年頃の肖像画)*3

フリードリヒ2世はこの混乱に乗じ、豊かな資源を持つシュレージエン地方(現在のポーランド西部)に電撃的に侵攻。この大胆な行動はヨーロッパ各国を驚かせましたが、結果としてシュレージエンの獲得に成功し、プロイセンの国際的な存在感を一気に高めることになります。

七年戦争(1756〜1763年)

シュレージエンを奪われたオーストリアのマリア・テレジアは、当然黙っていませんでした。フランス、ロシア、スウェーデンなどを巻き込んだ反プロイセン包囲網を形成し、1756年についに戦争が勃発します。これが七年戦争です。

プロイセンは四方を強国に囲まれ、誰が見ても絶体絶命の状況でした。しかしフリードリヒ2世は、卓越した軍事的才能を発揮し、各戦線を素早く移動しながら個別に撃破する戦略で何度も危機を乗り越えます。

7年戦争「ロスバッハの戦い」の画像
1757年のロスバッハの戦い。七年戦争を代表する、プロイセン軍の大勝利として知られる。*4

🎯 七年戦争はヨーロッパだけでなく、アメリカ・インド・アフリカにまで及んだ最初の「世界大戦」とも呼ばれる大規模な戦争でした。

戦争末期、プロイセンはほぼ追い詰められましたが、ロシアのエリザヴェータ女帝の急死により状況が一変。後継者のピョートル3世がフリードリヒ2世の崇拝者だったため、ロシアが突然戦線を離脱し、プロイセンは奇跡的に生き残ります。この歴史的な逆転劇は、「ブランデンブルク家の奇跡」と呼ばれています。

啓蒙専制君主としての顔

シャルロッテンブルク宮殿前のフリードリヒ大王像
フリードリヒ大王像 *5

フリードリヒ大王は、単なる軍事の天才ではありませんでした。フランスの哲学者ヴォルテールと深く交流し、音楽(フルート演奏)や文学を愛した文化人でもありました。

統治においても、当時としては先進的な政策を数多く実行しています。

  • 宗教的寛容:カトリック・プロテスタント・ユダヤ教など、さまざまな信仰を認める政策を採用
  • 法律の改革:拷問の廃止や裁判の公正化を推進
  • 教育の整備:国民への教育普及を進める
  • 農業と産業の振興:荒れた土地の開墾や産業育成で国力を高める
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フリードリヒ大王は「国王は国家の第一の僕(しもべ)である」という言葉を残しています。権力者でありながら、国と民のために働くべきという考え方は、当時としてはとても革新的でした。

こうした内政と外交の両面での活躍により、フリードリヒ2世の治世にプロイセンはヨーロッパ列強の一角としての地位を確立。後のドイツ統一への道筋を切り開く大きな土台となりました。

プロイセンとオーストリア:二大勢力の対立

18世紀のドイツは、プロイセンとオーストリア(ハプスブルク家)という二つの大国が並び立つ構図になっていました。

神聖ローマ帝国の「皇帝」はハプスブルク家が代々独占していましたが、実際にはプロイセンの軍事力と影響力が帝国内でも無視できないほど大きくなっていたのです。

📌 二大勢力の比較(18世紀後半)

比較項目プロイセンオーストリア
強み軍事力・効率的な官僚制広大な領土・伝統的な権威
弱み国土が分散・資源が限られる多民族国家で内部が複雑
中心地ベルリンウィーン

この二国の対立と競合は、後の「ドイツ統一」をめぐる主導権争いへとつながっていきます。

フリードリヒ大王の死後とフランス革命の影響

1786年にフリードリヒ大王が亡くなった後も、プロイセンはなお大国としての地位を保っていました。しかし、その後のヨーロッパではフランス革命が起こり、さらにナポレオンが台頭すると、各国を巻き込む戦争の中で従来の秩序が大きく揺らぎ始めます。

こうした激動の中で、18世紀に軍事と官僚制度によって力を伸ばしたプロイセンも、新しい時代の波に直面することになりました。そして1806年、ナポレオン戦争の影響のもとで神聖ローマ帝国は正式に解体され、ドイツ世界は大きな転換点を迎えます。

プロイセンの台頭は、1806年の神聖ローマ帝国解体によって終わりを迎えます。次の時代には、ナポレオン戦争のただ中でドイツ再編と統一への流れが動き始めていくのです。

お勧めの書籍

フリードリヒ大王の戦争学: プロイセン王から将軍への軍事教令

フリードリヒ大王の肖像画
フリードリヒ大王の肖像画 *6

フリードリヒ大王本人が将軍たちのために書いた軍事教令の翻訳。もとは機密文書だったが、七年戦争中に漏洩して広く知られるようになった。18世紀プロイセン軍の強さと、フリードリヒ大王の軍事思想を知るうえで興味深い一冊。フリードリヒ二世 (著), 武内和人 (翻訳) 

おわりに

砂地の小国から出発したプロイセンは、フリードリヒ大王の時代に軍事・外交・内政の三拍子そろった大国へと変貌を遂げました。ヨーロッパの列強たちがそのことをはっきりと認識したのが、まさに七年戦争だったと言えるでしょう。

17世紀後半から18世紀にかけて進んだこの成長は、のちのドイツ史を大きく動かす土台となりました。プロイセンの台頭は、ドイツ諸邦の中での勢力バランスを大きく変える出来事だったのです。

まいん
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誕生から約100年をかけて、ヨーロッパ列強の一角にまで成長したプロイセン王国ですが、ナポレオンという一人の天才の台頭によって終わりを迎えるのは印象的ですね。次の記事では、いよいよドイツ統一への道に進みます。

💡 ワンポイント豆知識|フリードリヒ大王とジャガイモ

フリードリヒ大王には、意外な「功績」が逸話として伝えられています。それはジャガイモの普及です。当時、ヨーロッパではジャガイモはまだ家畜の餌か物珍しい食べ物と見なされており、農民たちはなかなか栽培しようとしませんでした。

そこでフリードリヒ大王がとったとされる作戦が面白い。王宮の庭にジャガイモ畑を作り、あえて「見張りを立てて厳重に守らせた」のです。すると農民たちは「そんなに厳しく守るなんて、よほど価値があるに違いない」と思い込み、こっそり盗んで自分たちも育て始めた――という笑い話のような逸話が残されています。

「禁止されると欲しくなる」という人間の心理をうまく使った、なんとも賢いマーケティングですよね。現在もドイツ各地の彼の墓には、感謝の印としてジャガイモが供えられたりするんですよ。

ジャガイモが供えられたフリードリヒ大王の墓石
ジャガイモが供えられたフリードリヒ大王の墓石 *7

📜ドイツの歴史に興味がある方は、ぜひドイツの歴史カテゴリーもあわせてご覧ください。古代ゲルマンの時代から現代まで、時代ごとの出来事をわかりやすくまとめています。

ドイツの歴史をざっくりと:古代から現代までの流れをたどる

【ドイツの歴史3】神聖ローマ帝国の成立と中世ドイツの姿(962年〜15世紀末)

出典:
*1 アントン・フォン・ヴェルナー – Quelle, パブリック・ドメイン, リンクによる
*2 Von Antoine Pesne – Damals. Nr. 4, Jg. 28, 1996, ISSN 0011-5908, S. 36., Gemeinfrei, Link
*3 ジーン・エティエン・リオタール – Musea en Erfgoed Antwerpen, パブリック・ドメイン, リンクによる
*4 不明 – Friederisiko. Friedrich der Große. Die Ausstellung, ed. Generaldirektion der Stiftung Preußische Schlösser und Gärten Berlin-Brandenburg (Munich: Hirmer, 2012), p. 143Uploader: James Steakley, パブリック・ドメイン, リンクによる
*5 Von DXR – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, Link

*6 アントン・グラフ – Originally uploaded to de.wikipedia (All user names refer to de.wikipedia):18:53, 24. Nov 2005 . . Caro1409 (Diskussion) . . 286 × 350 (17967 Byte)18:51, 24. Nov 2005 . . Caro1409 (Diskussion) . . 286 × 350 (17967 Byte), パブリック・ドメイン, リンクによる
*7 Von SK49 – Eigenes Werk, CC BY 3.0, Link

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この記事を書いた人
まいん

ドイツ在住20年。実際の体験をもとに、暮らし・歴史・文化・観光のリアルな情報をお届けしています。

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