ゲッティンゲン七教授事件とは|グリム兄弟が職を追われたハノーファーの憲法事件

ハノーファーのゲッティンゲン七教授記念碑 ドイツの歴史
ゲッティンゲン七教授記念碑 *1

ハノーファーの旧市街を歩いていると、とある銅像群が目に飛び込んできます。その名はゲッティンゲン七教授記念碑(Denkmal der Göttinger Sieben)。

ハノーファーのゲッティンゲン七教授記念碑
ハノーファーのゲッティンゲン七教授記念碑

一見すると古代ローマの人物を模したように見えるその銅像たちですが、その背景を調べてみたら、思わぬ人物が関わっていたことに気付きました。ヤーコプとヴィルヘルム、そう、あのグリム兄弟も関わった、19世紀ドイツ史に残る「ゲッティンゲン七教授事件」の記念碑だったのです。

まいん
まいん

この記事では、その「ゲッティンゲン七教授事件」を詳しく見ていきます。

ゲッティンゲン七教授事件とは何だったのか

ゲッティンゲン七教授事件の教授たち
7人の教授たち。上段がグリム兄弟。*2

ハノーファー王国と1833年憲法

現在のドイツは一つの国家ですが、19世紀前半のドイツ地域は、まだ多くの王国や公国に分かれていました。その一つが、北ドイツにあったハノーファー王国です。ゲッティンゲン大学も、このハノーファー王国に属していました。

ハノーファー王国では1833年、Staatsgrundgesetz(国家基本法)と呼ばれる、比較的自由主義的な憲法が成立します。王の権力を一定程度制限し、議会の権限を認めるもので、当時としては大きな意味を持つ憲法でした。

新王エルンスト・アウグスト1世の憲法停止

ところが1837年、エルンスト・アウグスト1世がハノーファー王に即位すると、状況が変わります。新王は1833年憲法を認めず、その効力を停止しようとしました。王にとっては、自分の権力を取り戻すための行動だったのでしょう。

しかし、憲法に宣誓していたゲッティンゲン大学の教授たちにとって、国王の決定は簡単に従えるものではありません。彼らは、王が憲法を止めようとする動きに対し、抗議文をまとめ、ハノーファーに置かれていた Königliches Universitäts-Curatorium(王立大学監督機関) へ提出しました。ここから、ゲッティンゲン七教授事件が動き出します。

教授たちはなぜ国王に抗議したのか

憲法への宣誓と、学者としての良心

ゲッティンゲン大学の教授たちは、ハノーファー王国に仕える立場として、1833年のStaatsgrundgesetz(国家基本法)に宣誓していました。そのため、新王エルンスト・アウグスト1世が憲法の効力を停止し、さらに「官吏たちを宣誓から解放する」と宣言しても、教授たちはそれで誓約が消えたとは考えませんでした。

問題は、国王の政策に賛成するか反対するかだけではありません。いったん憲法に誓った者が、王の一方的な決定によって、その誓いをなかったことにできるのか。教授たちはそこに、法を守る者としての責任と、学者としての良心の問題を見たのです。だからこそ、彼らの抗議は単なる政治的反発ではなく、憲法と宣誓に対する態度を問うものとなりました。

抗議文と学生たちによる拡散

抗議文は提出後、七教授の一人ゲルヴィヌスを通じて、ゲッティンゲン大学の学生たちの手に渡ったとされます。多数の写しが学生たちによって作成され、数日のうちにドイツ各地へ送られていきました。こうして、ハノーファー王国で起きた憲法をめぐる対立は、ドイツ各地で知られる出来事となります。

国王の決定に対し、大学教授たちが憲法への宣誓を理由に異議を唱えたことは、当時のドイツ地域に大きな波紋を広げました。七教授の抗議は、のちに19世紀ドイツの自由主義や立憲主義を語るうえで、象徴的な事件として記憶されるようになります。

抗議の結果、七教授はどうなったのか

国王と大学側の対応

抗議書は本来、大学の管轄側へ提出された物で、最初から一般公開を目的にしたものではありませんでした。しかし学生たちによって、数日のうちにドイツ各地へ拡散されたことによって、事態が一気に公の問題になりました。ゲッティンゲン大学公式は、この拡散によって、即位して間もない国王が「面目を保つために厳しく対応せざるを得なくなった」と見ています。

エルンスト・アウグスト1世は、自分こそが彼らの唯一の主君・雇用上の主人であり、服務宣誓は国王に対するものだから、自分だけが彼らをその宣誓から解放できる、と考えていました。七教授の行動は、服務服従の拒否、王権への挑戦、国家秩序を揺るがす主張とみなされました。

国王側の正式な反応として、1837年12月11日付の解職文書が出されました。

7人全員の解職と、3人の国外追放

その結果、同年12月14日、抗議に署名した7人全員がゲッティンゲン大学での職を失いました。さらにそのうち、フリードリヒ・クリストフ・ダールマン、ゲオルク・ゴットフリート・ゲルヴィヌス、ヤーコプ・グリムの3人には、ハノーファー王国からの退去が命じられます。

残る4人も大学教授としての職を失いましたが、ハノーファー王国内に留まることは許されました。七教授の専門分野と処分を整理すると、次のようになります。

人物専門処分
フリードリヒ・クリストフ・ダールマン歴史学・国家学解職・国外追放
ゲオルク・ゴットフリート・ゲルヴィヌス歴史学・文学史解職・国外追放
ヤーコプ・グリムゲルマン語学・文献学解職・国外追放
ヴィルヘルム・グリムゲルマン語学・文献学解職
ヴィルヘルム・エドゥアルト・アルブレヒト法学解職
ハインリヒ・エーヴァルト神学・東洋学解職
ヴィルヘルム・ヴェーバー物理学解職

グリム兄弟もこの七教授の一員だった

この七教授の中には、『グリム童話』で知られるヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリムの兄弟も含まれていました。兄のヤーコプ・グリムは、ダールマン、ゲルヴィヌスとともにハノーファー王国からの退去を命じられます。一方、弟のヴィルヘルム・グリムも署名者の一人として大学教授の職を失いました。

グリム兄弟は童話集の編纂者として広く知られていますが、同時にゲルマン語学・文献学の研究者でもありました。七教授事件では、兄弟そろって抗議文に署名し、国王による憲法停止に異議を唱えました。兄弟の生涯については、別記事でご紹介しています。

ハノーファーの州議会前に残る記念碑《Denkmal der Göttinger Sieben》

七教授事件を表す9体の像

ハノーファーのニーダーザクセン州議会前、Platz der Göttinger Sieben には、ゲッティンゲン七教授事件を記念する「ゲッティンゲン七教授記念碑(Denkmal der Göttinger Sieben)」があります。記念碑は1998年に設置され、作者はイタリアの彫刻家フロリアーノ・ボディーニです。

この記念碑は、抗議した七教授の像だけでなく、ハノーファー王エルンスト・アウグスト1世の騎馬像、そして学生像を含む、全部で9体の像で構成されています。

写真で見る記念碑の構成

この記念碑は、七教授事件を一つの場面として表したような構成になっています。中心にあるのは、半開きになった門です。門の外側にはハノーファー王国からの退去を命じられた3人、門の内側には解職されたものの、王国内に留まることを許された4人が配置されています。

また、記念碑には学生像も含まれています。抗議文が学生たちによって写し取られ、ドイツ各地へ広まっていったことを思うと、この学生像も事件を語るうえで欠かせない存在です。

ハノーファーのゲッティンゲン七教授記念碑
門の外側。王国から退去を命じられた3人。右の柱の上にいるのが学生(筆者撮影)

門の内側には、ハノーファー王エルンスト・アウグスト1世の騎馬像があります。七教授たちと向き合うようでありながら、どこか孤立して見える配置です。

ハノーファーのゲッティンゲン七教授記念碑(門の内側)
門の内側。王の騎馬像と、国外追放されなかった4人。1人は左の像にかくれているためこの写真では見えません。(筆者撮影)

教授たちの手元には、本や文書、巻物のようなものも見られます。これらの細部からも、この記念碑が単なる人物像ではなく、憲法、学問、言葉による抗議を表していることが伝わってきます。

ハノーファーのゲッティンゲン七教授記念碑 ゲルヴィヌス像
ゲルヴィヌスと筆者(像の大きさの参考にしてください)

9体の像は誰を表しているのか

ここで、一体一体の像が誰を表しているか見てみましょう。ただし、これらは、七教授や国王の姿を写実的に再現したものではなく、彫刻家フロリアーノ・ボディーニが自分の身近にいた人物の顔立ちをもとに制作しました。たとえば、ヤーコプ・グリムを表す像はボディーニ自身、ヴィルヘルム・グリムを表す像は、作者の弟アルトゥーロ・ボディーニをモデルにしています。

王の騎馬像

エルンスト・アウグスト1世

ハノーファーのゲッティンゲン七教授記念碑 エルンスト・アウグスト1世

門の外の3人と学生

左から、ゲルヴィヌス、ヤーコプ・グリム、ダールマン、学生

ハノーファーのゲッティンゲン七教授記念碑 門の外の3人と学生

門の中の4人

左から、ヴェーバー、エーヴァルト、アルブレヒト、ヴィルヘルム・グリム *3

ハノーファーのゲッティンゲン七教授記念碑 門の中の4人

記念碑が語る、憲法と良心の記憶

その場では勝利ではなかった事件

七教授事件の後、ハノーファー王国では1840年に改定憲法が成立しました。1833年のStaatsgrundgesetz(国家基本法)がそのまま戻ったわけではありませんが、事件が引き起こした大きな政治的反響もあり、その内容は当初懸念されたほど、国王の権限を一方的に強める内容にはなりませんでした。

その後、七教授たちはそれぞれの道を歩みます。アルブレヒトはライプツィヒで教壇に立ち、ダールマンはボンへ移り、エーヴァルトやヴェーバーはのちにゲッティンゲンへ戻りました。グリム兄弟はのちにベルリンへ移り、『ドイツ語辞典』の編纂に力を注ぎます。また、ヤーコプ・グリム、ダールマン、ゲルヴィヌス、アルブレヒトは、1848年のフランクフルト国民議会にも関わりました。

七教授の抗議は、ただちに制度を変えた出来事ではありませんでしたが、憲法への誓いと学者としての良心を貫いた行動として、後の時代に意味を持つようになりました。

州議会前に置かれている意味

ゲッティンゲン七教授記念碑は、事件の舞台となったゲッティンゲンではなく、ハノーファーのニーダーザクセン州議会前に置かれています。

この場所は、七教授事件が大学だけの記憶ではなく、憲法と政治に関わる記憶として受け継がれていることを示しています。ニーダーザクセン州議会も、この記念碑を「自由と個人の信念のために立ち上がった勇気」を伝えるものとして紹介しています。

おわりに

私が約10年前に初めてハノーファーに行った時、まだこの「ゲッティンゲン七教授事件」のことを知りませんでした。しかし街歩きの途中で目にしたこれらのブロンズ像群になぜだか心を打たれ、そばに寄って一体一体を食い入るように見つめました。訴えかける何かを感じたのかも知れませんね。

まいん
まいん

次にハノーファーに行く機会があったら、ぜったいに一体一体とツーショット写真を撮ろうと思ってます(笑)

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画像出典
*1 By ChristianSchd – Own work, CC BY-SA 4.0, Link
*2 By Carl I Rohde – Unknown source, Public Domain, Link
*3 By ChristianSchd – Own work, CC BY-SA 4.0, Link
のヴィルヘルム・グリムの画像を使用し、本サイトがトリミング・配置編集してコラージュを作成しました。このコラージュ画像は CC BY-SA 4.0 にて公開します。

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